kumakuma-blog

11.8.7 女川町 復興祭 (宮城県女川町)



3月11日の東日本大震災から5ヶ月・・・
あの時はすべてのイベントやコンサートが中止や延期になって
本当に歌を歌えるって事は幸せの上に成り立っている事を実感しました。

実際震災があった2週間前に全国キャンペーンの宮城県で歌っていたのです。

97年に最後のかけで旅に出た
全国有線放送キャンペーンの時には
八戸も宮古も塩竃も石巻も大船渡も気仙沼もあの辺は車で走って
それぞれの放送所に行った日の事を今でも
鮮明に覚えています。

テレビで見る場所はまさにあの日自分が立っていた場所という事も沢山ありました。

なにか出来ないかな?
歌を作ってなんてアーティストがみんなやる当たり前の事に
最初はためらいがありました。
歌でいったいなにが出来る?
ただの宣伝なのでは?
生きるか死ぬかの瀬戸際で歌を口ずさむ人なんていない・・・

そこでお金だと思って
柏のチャリティーライブでCD売上を全額義援金にさせていただきました。
そんな微力でいいのか?
そう思っていましたが、出来る事が他にみつからなかったのです。
そして、4月のクレアこうのすのコンサートのプロモーションの為に入っていた
FMNACK5のゲスト出演。
今ではもう4月のコンサートは延期になったので宣伝する内容がなかった。
そこで、よし!
歌を作ろう・・・
やっと歌を作る気持ちになりました。
ただの歌ではない
誰もがうなずける歌を作ろうと・・・

完成したのは
放送日の前日でした。

それを生放送で電波を通してまずは関東全域に歌いました。
これはすごく共感していただけて
FM NACK5のパワーセレクションにもなりました。
プロデューサーからその日に電話がきて
「あの歌は音源ないの?」
そして、すぐにギター一本で録音したものをメールを送りました。
その翌日から早速流れはじめました。

そして8月5日になって
アレンジをしたCDを今度は全国にも届くように
流通にのせてリリースしました。

この歌はやがて被災地にも届きはじめました
「親戚が東北にいるので、送ります」とか
「支店が名取にあるので送ります」とか
「家族が石巻なので、届けます」とか

そして、いつの日かこの歌を
被災地で生で歌いたいとずっと思っていました。

でもその日はなかなかやってきませんでした。
そして5ヶ月経ってやっと訪れたのです。

はじめは命、悲しみ、絶望、そして食べ物、着る物、生活・・・
そうやって変わって行く中で、5ヶ月経ってやっと歌が求められる時が来たのかな?と
思いました。

朝8時に石巻を通過
ある所から、街の姿は急変します。



折れた電信柱、割れたガラスのままのお店
海にあるべき巨大なタンクが転がった道
グニャグニャに曲がったガードレール



そして女川に出る道をこえた時
あのテレビの画面で見る姿がありました。


(女川消防署)

家があったであろう場所に、まったくなにもない姿
そして、5階建てくらいの倒れたビル
鉄骨がむきだしの建物、それを過ぎると
次は破壊された家屋の木材の山
まさに見たこともない姿でした。

テレビというのはどんなに巨大な画面になっても
この等身大の自分から見る、巨大な景色は再現できないものです。

そこを走るだけで、自分の小ささを感じました。

すこし山を登ると
グランドが見えてきます。
そこが避難所と仮設住宅がある今回の復興祭の会場です。

続々と元気村の緑のTシャツを着た人達が集まってきました。
この元気村の関係でフラワーラジオから僕は今回参加させていただきました。



同じくフラワーラジオから来た、タッシーさんも稲垣さんも木村さん
そして、ハロルドさん達とも合流。
テント張りからはじまります。

そして音響をハロルドの竹本さんのと僕のを合作させて
セッティングしました。

流しそうめんの準備やかき氷、やきそば
そして、子供向けのおもちゃやぬいぐるみ
どんどん準備が整って行きます。

11時から開始!
焼きそばは行列、スイカを食べる子供達
タッシーさんは変な楽器を持って、フラフラ
会場は盛り上がって行きました。

ステージの前は屋根もなかったので、木陰で見てくださる方が沢山いました。

最初はうめぼしの歌ではじまり、太鼓、そしてよさこいソーラン!
そして、12時30分から僕の出番です。



ちょうど曇っていた空も太陽がカンカンに顔を出してきました。

稲垣さんと木村さんの司会のふりで、登場。



「ただ見つめてただけの初恋」からはじまり、「どこで暮らしていても」
暑いのにベンチに座って見てくださる方もいましたが、木陰から見てくださる方も
沢山いました。

途中のリクエストコーナーではほとんどの方がリクエストしてくださいました。
この瞬間って僕が好きなんです。
だって、はじめてお客様と直接コミュニケーションが出来る時間ですからね
ここでみなさんの笑顔を沢山見ました。
歌がだんだんモノマネになって行くと、これまた笑顔!
あっという間に楽しい時間も過ぎて、最後の曲は
「命~2011からのメッセージ」
今まで何度も歌ってきた歌ですが、今日はまったく意味が違います。

本気でいつも歌っていますが、今日の本気は違います。

曲名を言って、一度目を閉じた後に
イントロを弾きはじめました。
一言一言を丁寧に、そして、本心で歌っていきました。

今までで一番長く感じた5分間でした。

最後の歌詞が口から出た時
会場から拍手が響き渡りました。

その拍手は本当に暖かくて、そして前向きな気持ちを僕に
逆に届けてくれました。

CDを今回は持っていってプレゼントしたのですが
100枚入りの箱2つが最後は空っぽになりました。

音楽ではお腹は満たされないけど、心の隙間をほんのちょっとでも
僕の歌で満たしていただけるなら、歌い手として
これほどの喜びはありません。

こうして、5ヶ月経って
「命~2011からのメッセージ」を歌う事ができました。

でも、同時に感じたのは
これで満足してはいけないって事です。
一回歌ったからいい・・・ではなく
今度は歌ももちろんですが、歌だけではなく、一人の人として
出来る事をなんでもしに来たいと思いました。

すべての片づけを終えて
元気村の方達約100人がどんどん会場を離れて行きます。

僕の車が出る時に
木陰で沢山の方が見送ってくれました。
深く頭を下げると、みなさん笑顔で大きく手を振ってくださいました。
その姿を見て本当に「きてよかった」という思いになりました。

やがて避難所のグランドがバックミラーから見えなくなる頃、思いました。
僕等は帰る家がある、「暑かったな」と言いながら風呂に入ってビールを飲める、
そして、明日はいい服を着てランチを食べる・・・
来月の再来月の予定を当たり前のように考えている。
でも、ここにいる方は帰る家はない、そして、来月、再来月の事を考えると
きっと同時に不安という言葉もつきまとってくると思います。

自分自身の今日の達成感は、本当の達成感ではない事を
心が知っていました。

本当の達成は、みんながマイホームを持てて、仕事があって
家族に「行ってらっしゃい」と「おかえり」が言えるようになる日が来る事だと思います。
その家族を失ってしまった方も多いと思いますが
それでも人と人が支え合って、いつかみんなが笑える日が
それが達成だと思います。

まだまだ先の事ですが
それまで本気で助け合っていかなくてはいけないと実感しました。

真夏の午後の日射しが照りつける帰り道、
CDを手にしてくださった方が言った一言を思い出していました。
「毎日聴きます・・・」

グランドから降りて行くと、もう一度、女川の街を見る事になります。
穏やかな海と、倒れた建物・・・
そんな中に一輪の向日葵を見つけました。

波を明らかにかぶった場所に
強く元気よく咲く、向日葵をみつけました。

真夏の太陽の光があれば、こうして
向日葵も咲くのです。

日本中の元気な僕等が
きっと真夏の太陽にならなくてはいけないんですよね。

がんばろう東北
がんばろう日本
そして
がんばろう女川!!



< 前の記事    一覧へ    後の記事 >