前の日に仙台に泊まろうと思っていたのですが、市内のホテルはいっぱい。 ずっと前から予約をしようと思っていたのですが、いっぱいでした。 やはり3月11日はたくさんの取材や催し物、追悼式があるから、いっぱいなんですね。 近くまで行っておこうと思って、とれたホテルが福島市内でした。 2000年のライブハウスツアー以来、福島の街にきましたが、すごくにぎわっていました。 福島っていうと、郡山が大きな街ですが、その60キロくらい先に福島市があるんです。 県庁所在地も福島市なんです。 同じような県で、栃木がありますね。 栃木市ってあるのですが、大都市は宇都宮というイメージですよね。 ちなみに栃木県は県庁は宇都宮です。 さて朝早くに出発。 間もなく仙台インターを降りて、会場の東北大学片平キャンパスに到着。 前回、打ち合わせにきているので、場所が完璧でした。 到着すると、片平キャンパスのさくらホールはボランティアの人でいっぱいでした。 車のナンバーも神戸だったり、尾張小牧だったり、各地からかけつけているようです。 今回は、阪神淡路大震災の被災者からの応援を込めてという事で、兵庫県の高校生や、関西の歌手の方、 ボランティアの方がメインとなっていました。 関東からチーム愛つなごうというボランティアが参加して、僕はその中で歌を歌わせていただける事になりました。 いきさつは2月にNHK第一ラジオの全国ネット番組「絆歌」から流れた「命~2011からのメッセージ」がはじまりでした。 この歌をたまたま聞いた方が、チーム愛つなごうの方で、3月11日にこの歌を届けに行こうというメールをいただきました。 3月の土曜日曜はほとんどスケジュールがうまっていたのですが、この日はたまたま空いていたのです(手違いでオルトンの告知をしてしまったのですが、 申し訳ありません) メールをくださった方と東北大学に事前に打ち合わせにきたのですが その時驚いたのが、兵庫のボランティアの主宰の方が、僕を知っていたのです。 帰り際に「さくまさんはイオン猪名川でも歌っていたでしょう」というのです。 イオン猪名川のお店の組合の方もボランティアの仲間だったのです。 さらに今回の司会はラジオ関西の方で、以前ラジオ関西も出させていただいたんですとい話もしました。 色々な所で、人の縁がつながっているんですよね。 当日、チーム愛つなごうの方と初めてお会いして、リハーサルをやりました。 そして本日の出演の方の名前を見てびっくり、なんとフォーク界の大大大先輩、高石ともやさんと、 なんとなんと!僕の父が一番大好きだった、五木ひろしさんだったのです。 第一部は追悼式なので、おごそかに進められたステージでした。 その前半での出演でした。 満席になったさくらホール、市民の方や、被災された方もたくさんいる中で 「命~2011からのメッセージ」を心から歌いました。 途中、涙を流して聞いてくださる方もいらっしゃいました。 そして「がんばれあなたの命」の所は声を張り上げて歌いました。 この歌を作ったときに思ったのです、「がんばれあなた」では荷が重すぎるんです。 がんばってという言葉では足りないんです。 なので、そのずっとずっと奥にある命に呼びかけたかったのです。 そこで「がんばれあなたの命」という歌詞になりました。 歌が終わると、一瞬沈黙があった後、割れんばかりの大きな拍手に包まれました。 その後は気仙沼で被災された方のメッセージでした。 その方が僕の歌詞を言った時にはびっくりしました。 「さきほどの歌にもあるように、生きているという喜びは、時として悲しみもつれてくる、生きているという悲しみはいつの日か喜びをつれてくる、まさにその通りです」 そう話を続ける方の言葉を聞いていて、涙が出てきました。 被災なんてしていない、僕が作った歌の歌詞が、ちゃんと届いているという事に涙が出てきました。そして、気休めだとか、いいきなもんだって思われたらどうしよう とずっと思っていた僕の気持ちにある意味、一筋に光を灯してくださいました。 この歌をもっともっと自信を持って歌っていこうと心から思いました。 出演が終わって、いったん控え室へ行って、後半の高石ともやさんのステージも見させていただきました。 高石さんはトークも面白く、歌もみんなで歌いましょうと言って、すごく会場がやわらいでいました。 さすがだと思いました。 ステージを終えた後、御挨拶をする事ができました。 同じジャンルの方なので、すぐに親しくお話をさせていただく事ができました。 一誠さんの話にもなりました。 高石さんいわく「彼はいつも遠くの方までコンサートに足を運んでくれて、一生懸命な人ですよ」と言っていました。 一誠さんの評論家デビューのきっかけはフォークシンガー岡林信康さんのコメントが雑誌で書いてからです。 その岡林さんが憧れたフォークシンガーがなんと、高石ともやさんですから、僕にとってどれだけ大先輩かわかりますよね。 岡林さんの後に吉田拓郎さんや井上陽水さんがデビューして行くのですから。 「高石さんの時代の方が作ってくださった道の上を歩かせていただけて、光栄です」と僕は言いました。 そして、これからの僕の音楽活動のかてになるようなとてもいい言葉、美空ひばりさんが言っていたという、とてもいい言葉もいただきました。 何十分も長話をしているうちに、五木ひろしさんのステージです。 3曲という短い時間でしたが、「ふるさと」という五木さんのもち歌も歌っていて 涙が出そうになりました。 終わった後に、五木さんとも御挨拶をする事ができました。 「本日、前半で歌わせていただきました、さくまひできと申します!」と言うと 五木さんは笑顔になって「見てましたよ」と言ったのです。 会場が広くて、まさか見てくださっていたなんて思ってもいなかったので、びっくりしました。 そして続けて「ギターが上手ですね」と言ってくださいました。 そして、僕の父が五木さんを大好きで、レコードを全部持っていて、五木さんのような歌手を父も目指していて、 その影響で僕も歌をはじめたんです。という事を伝えると 「そうですか」とじっくりと聞いてくださいました。 本当ならお忙しいのに、忙しいそぶりは一切見せずに、じっくりと聞いてくださる姿勢に 本当に感激しました。 最後に握手をしていただきました。 短い時間でしたが、本当に夢のような時間でした。 父が夢みた歌手を僕が目指して、僕の中の目標に、デビューというのもありましたが さらに五木ひろしさんと同じステージにたてることというのがありました。 これは自分が憧れたアーティストではなく、父が憧れた歌手の人と同じ場所にたてるという 自分へのすごく大きな目標でした。 3月11日という悲しみがたくさんある日ですが、その日に「命」という歌を歌えて そして、父のあこがれの方にお会いできて(父のあこがれでもあり、僕のあこがれの人でももちろんあります)、 一つ一つの点がすべてつながったような一日でした。 さらにその出演の予定を組んでいた方が、猪名川で僕を見ていた、 まさにつながっていると思いました。 陽もくれた頃、ホールの外では、キャンドルを灯しての式、そして 復興を願って、風船をみんなで飛ばしました。 空高く飛んで行く風船をいつまでもいつまでも、僕は見上げていました。 きっとこの空の上で父がびっくりしているでしょうね 「五木ひろしさんに会ったのか!?」ってね(笑) そして、二言目には言いそうです「サインもらってこい!」ってね(笑) サインはもらえなかったけど、また一つ心に決めたことがあります。 今日はいつか父に報告したかった夢「五木さんと同じ舞台」がかなったので また再会できる夢です。 一言で再会とは簡単ですが、ようするに五木さんのような立派な歌手に一歩でも前進しなければ 再会できないという意味です。 まさにこれからの勇気をもらえた一日でした。 震災から一年の今日。 宮城県で歌った2011年の2月、FM795で初めて「命~2011からのメッセージ」を歌った3月、 そして、女川で歌った8月、 そしてまた宮城県で歌った今日2012年3月。 歌は新曲を出せば、古い歌は色あせてしまうこの時代。 「命~2011からのメッセージ」はきっと色あせないまま、ずっと大切に歌っていきたい歌です。 今日、五木ひろしさんが最後に歌った歌「ふるさと」 「ああ、誰にもふるさとがある、ふるさとがある」というフレーズ。 あの歌はまさに僕の心にしみ込んだ歌うです。 幼稚園の僕が、いつもレコードに針を落として聞いていた歌だったのです。 父もよくレコードに合わせて、「ふるさと」を歌っていました。 この歌を五木さんが歌っている時に ふと、父の歌声が聞こえてきたような気がしました。 「ああ、誰にもふるさとがある、ふるさとがある」 3月11日にふるさとをなくしてしまった方もたくさんいるでしょう。 ふるさとを離れて暮らす人もたくさんいるでしょう。 でも、ふるさとは場所としてもあるけど、心にもあるのだと思います。 ふと心の景色を振り返ると、そこにいつでも、 歌を歌っている父がいます。 震災で家族を失ってしまった方、家を失ってしまった方 すべてを失ってしまったとしても、心の中のふるさとまではたとえ津波でも流す事は出来ないのです。 こんな僕が言うのも気休めのようですが 心のふるさとをずっと持ち続けて、これからの街の復興、そして心の復興をお祈り申し上げます。 「必ず 笑顔になれる 命」 ですから。 (震災当日の新聞、今でも胸に重くのし掛かるものです) (風船) (高石ともやさんと) (五木ひろしさんと)